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九大鳥人間チームの歴史

先日の資料大整理で発掘した、当チームの歴史に関する文書を載せます。
SW前、もっと早くにあげるつもりだったのですが、仕事が遅くて申し訳ありません。’,’以下、鳥資料より転載~

歴史
メールのやり取りより、判明した分。及び、覚えているだけ。

QX‐80は、合谷さんのメールより

QX-80:第4回大会 92.64m 2位
昭和55年の4回大会出場の合谷です。
我々のチームが九大最初の鳥人間チームです。
最初に鳥人間コンテストに出場しようと発案したのは当時の難波研にいた石川彰彦(現三菱重工)さんだと思います。
九大航空工学科の6年間の思い出として飛行機を作って鳥人間コンテストにチャレンジしてみようと有志を募ったところ、十数名のメンバーが集まりました。
初めての出場ということで何のノウハウもなく、まずは翼型の選定から始まりました。
翼型の名前は忘れましたが、雑誌に掲載されていた翼型の模型を作り、風洞を借りて性能試験をしたことを覚えています。(授業でやった実験より、みんな真剣に取り組みました。)
書類審査のときにその時の風洞試験のレポートも提出したところ、主催者の日本テレビの方で話題となり、九大まで取材に来られました。
そのせいか、九大チームは初出場にもかかわらず、優勝候補の一角になり、琵琶湖のコンテスト会場では回りの脚光を浴びました。
当時もお金がなくて、材料はほとんど学校にあったものを分けてもらったり、メンバーに航空模型部やグライダー部がおり、彼らが材料や工具をずいぶん提供してくれました。
それでも、材料の調達に20万円以上はかかったと思います。
(そのお金はメンバー個人個人の寄付でまかないましたが、我々のチームは二位になって賞金50万円もらったので、メンバー各々に寄付金を返却しました。)
当時のメンバー(このころは男性だけで女性はいませんでした)は夕方になると当時の製図室(今は取り壊されてなくなった)に集まり、みんな和気あいあいで、製作に取り組んでいました、今考えてみても一番楽しい時間でした。
苦労話と言えば、最初の飛行試験で強度が足りないことが分かり、補強したところ飛行機の重量が5 kg重くなり、最終的な対策案としてパイロットに5 kg減量してもらったことです。

QX-81:第5回大会 82.71m 5位
QX-82:第6回大会139.70m 2位
QX-83:第7回大会137.68m 3位
QX-84:第8回大会122.15m 奨励賞
QX-85:第9回大会 67.79m
QX-86:第10回大会 11.65m
QX-87:第11回大会109.42m 奨励賞
QX-88:第12回大会 20.45m

QX‐89から、QX‐94までは、郷田さんのメールより
郷田さんは、QX‐89からQX-94までの6年間活動された。

QX-89:第13回大会 51.80m 奨励賞
私が1年の時は、担当部門なんてありませんでした。
全メンバー(めったに来ない人も入れて)で20名程度しかいなくて、1回の作業の平均人員は5~6名といった状況でした(レギュラーメンバーは10名ちょっとくらい)
その日にいる人がその日の作業をするといつた具合で、作業に来たのに材料がなくて仕事ができないといった事もよくありました。
まあ、この年は先輩がほとんど卒業してしまい、1, 2年生中心のチームだったので、しょうがない面もありました。
設計:濱福、山口さん、三保さん(当時M2)
パイロット:前田さん(当時B2)

QX-90:第14回大会滑空機部門中止
台風のため滑空機部門中止
状況は89年とあまり変わりません。新1年生(近藤たち)がたくさん見学に来たのですが、南さんがそうじと宛名書きをやらせたので、たくさん(20人近く)いた1年生はあっというまにいなくなりました。
設計:森さん、南さん(当時B3)内田さん(当時M1・機械)
パイロット:酒井(当時B2)

QX-91:第15回大会 134.80m
昨年の機体がそのまま残つていたので、春日原で滑走程度の飛行試験をやりました。
風がなかったので、あまり浮きませんでした。
取り掛かりは早かったのですが、リブを作り直したり余裕をかましてトロトロやっていると、あっという間に大会当日になり、その朝になってようやく完成しました。
当時は大会もまだのんびりしたもので、こういうチームはたくさんありました。
前日の徹夜作業は良くある光景で、ライトや発電機は夜通しつきっぱなしが当たり前でした。
このころも特に担当部門は決まっていませんでしたが、各人がそれぞれ好きな部分を持ちはじめるようになってきたと思います。
この年から私は尾翼回りを担当するようになりました。
設計:森さん、南さん(当時B4)
パイロット:杉森(当時B3)

QX-92:第16回大会 69.25m
QX‐91が良い結果を残したので、基本的にほとんど同じ作りで、スパンを伸ばしたのと、カウルを小さくしたくらい。担当部分もほぼ同じ。
私が本格的に現場のとりまとめをしはじめたのもこの頃だったと思います。
このころはまだ携帯電話は普及しておらず、旅行中の車どうしの通信は無線でやっていました。
そのとき関戸がしゃべらないので、佐々木が関戸のかわりに自己紹介をしたのが思い出されます。
設計:森さん、南さん(当時M1)
パイロット:杉森(当時B4)

QX-93:第17回大会 22.45m
新体制の鳥人間をずっと引っ張ってきた森さん、南さんが最後の年ということで、かなり気合の入った飛行機でした。
私が活動した中で、作業が最もハードだった年です。
私の立場は現場監督的なもので、作業の段取りや、材料の入手などを、臼井と協力してやっていました。
この年に福岡航研のご厚意で工場を使わせてもらったり、複合材の事や飛行機の事、作業の効率的な進め方など、エンジエアリングについていろいろ実作業を通じて教えてもらい、ずいぶんチームがレベルアップしたと思います。
現在の鳥人間チームの基礎は、この年(と次の年)に培われたものと言っても過言ではないと思います。
設計:森さん、南さん(当時M2)
パイロット:杉森(当時M1)

QX-94:第18回大会 139.36m
設計と責任者を臼井とともにやりました。
作業の方は、かなり役割分担を明確にして、効率化と責任を持って仕事をしてもらうようにしました。
この年に現在の鳥人間チームの基本的な作業スタイルがほぼ確立されたと思います。
設計:高崎(当時M1)、郷田、臼井(当時M2)
パイロット:村上(当時B2)

それと、責任者の時、機体の製作と同じくらい力を入れたのが人材の育成です。
メシをせっせと食わせたり、なるべく面白い仕事をやらせたり、設計の考え方を文書にして残したりと、後輩たちはどう思っているか解りませんが、これについては臼井とともにホントにいろいろ考えて、やったつもりです。
いま、福元たちが活発な活動を展開しているのを見て、とてもたのもしく、嬉しく思うし、また、私達がやったことは無駄ではな
かったと思えます。
君達も機体同様、後輩の育成もしっかりやって下さい。

同期の鳥人間(ずっとやった人):臼井、佐々木、問註所(機械)、杉森、飯田(造船)、米丸、高崎
同鳥人間経験者(途中でやめた人):西迫、一木、酒井、原口

QX-95:第19回大会 189.01m レディース部門優勝
近藤さんを中心としたチーム。
今思うと、この年が1番車の台数が多かったような気がする。
機体としては、前年のものを踏襲し改良を加えたものであった。前原工場最後の年であり、この時には、次の年からこの工場が使えなくなるとは思いもしなかった。
もともと、パイロット予定であった、村上さんが、ハングの練習中に骨折してしまい、急速、鋤柄さんがパイロットになることになった。結果としては、レディース部門優勝であり、村上さんの骨折も無駄ではなかったのではないだろうか。
鋤柄さんの訓練もきちんとハングで行っていた(もちろん鳥から金は出ていた—バブル)。

QX-96:第20回大会 185.31m レディース部門2位、奨励賞
橋場さんを中心としたチーム。
この年、バブルがはじけた影響を受けて、福岡航研が突然の倒産。
工場のものを、差し押さえ前にみんなで取りに行き、真空ポンプ、バーナー、などの道具を我が物とする。
前原工場が使用不可になったため、仕方なく、箱崎オンリーの作業となる。
一番の問題になったのが、カーボンスパーをどのように製作するかであり、一時期は、カーボンスパー外注という話もあったようである。
分解組み立て式の釜を新調(村上さん作)し、これによって、どこでも焼きができるようになる。
また、この時に、浜崎さんが中心となり、二重バギングという手法をはじめて行う。
カーボン製作に当り、いろいろと話があったようであるが、この時自分はまだ3年生であったので、その話に加わることができなかったため、どのような話があったかはよくわからない。
紙のパイプを型に使用したカーボンスパー(胴体用)を製作したり(これは、型を抜くのに非常に苦労し、両端を密閉して水を入れ、1週間放置し、柔らかくなったころを見計らって、かなり無理やり型を抜いた)、二重バギング導入前に発泡を型に焼いているとへこんだスパーが焼きあがり(ったように見えたが、焼きあがるときれいになっていた、怖かったので、上に積層したように覚えている)、これをきっかけに二重バギングを行うようになった。

QX-97:第21回大会 台風のため中止
千葉さんを中心としたチーム.
千葉さん、関戸さんともども、かなり気合が入っていて、途中までは、九大史上最も工期が短い機体になるのでは(4月ロールアウトも夢ではなかった)と思われていたが、審査に落選。
審査に落ちるという事態に、一時期は、活動中止かという話も持ち上がったが、次の年の人間を育てるという意味で、やはり、きちんと作り上げようということになった。
非常に飲み会の回数が多かったような気がする。
さすがの千葉さんも、士気の低下には苦労したようであるが、そんなことは、微塵も感じさせなかった。
カーボンスパーは、この年、それまでのガチガチ路線から、いきなりの転換を行い、かなり積層数が減ったものを製作した。
いま、自分が見ても、これだけ積層数を減らすのはかなりの勇気がいったのではないかと思うほどである。
なんだかんだあっても、結局7月中に機体が仕上がり、さすが、千葉さん、関戸さんだと思った。
機体の仕上がりも申し分なく、大会に出ていれば、それなりの記録を出せたのではないかと考える。
最高の指導力を持ったリーダーに、確かな技術力を持った冷静なサブリーダーという強力な上層部を拝したチームであり、審査に落ちるまでは、これまでで最高の士気の状態で、機体の設計、製作もまったく問題がなかっただけに非常に残念であった。

QX-98:第22回大会 34.76m
村上さんを中心としたチーム。
この年から、今宿の工場を使い始める。
前年度に、審査落ちしてしまったために、この年の設計はかなり攻めたものであった。
それまでの吊り下げ式から、乗りこみ式に変化し、また、翼型も、NACAから、FXになった。
この年は、M2の数が2人に対し、M1が7人もいたため、かなり、M1に仕事を任せていただいた。
パイロット出身の村上さんが、1年生パイロット(北島)の訓練をできるだけやりたいと考えていたため、6月中のロールアウトを目指し、かなりきつめの作業となった。
あまりの作業のきつさに、労使抗争もあった(笑)。
しかし、試験飛行は、ちょうど梅雨の時期に重なったため、雨天中止を繰り返し、いらいらすることが多かった。
FX翼型を使用したために、フィルムはりの方法で、かなり苦労したが、貼り方も開発し、きれいに貼れるようになった。
この年から、後縁材をバルサ、ヒノキから、カーボンにかえ、後縁の仕上がりもきれいになった。
機体の仕上がりは、それまでで最高であり、これならかなりの記録がねらえるのではないかと思ったが、実際は、離陸時の尾翼破損のために墜落してしまった。
尾翼はこの年、水平、垂直ともども動くはずであったが、天候不良のため予定日の前日に飛ぶことが急遽決定し、セッティングミスを犯し(逆舵になった)結局固定してしまった。

QX-99:第23回大会 184.95m
滑空機部門第4位。奨励賞。
背風の中のフライトであったが、無事離陸に成功!
写真を見ると、尾翼とプラットホームは30cmほどしか隙間がなかった。
3本ある脚の中、左翼の脚が折れて離陸直後に落下、その様子も写真を見ると良く分かる。
物を落とすのはレギュレーション違反であるが、テレビ的にうちらを使用しないと盛り上がらないと判断されたようで、なにも言われなかったばかりか、奨励賞まで貰ってしまった。
九大ターンもなく、久しぶりにまっすぐ飛んだ。
M2の数が多かったために、設計を主に、空力(市毛,松本)、安定計算(松本,市毛)、構造(福元)、乗りこみ部(西村)、カウル(市毛)、コントロール系(窪田,B4宮崎)、と分業体制でやることができた。
また製作も主に、構造(福元)、翼(松本、市毛)、乗りこみ部(西村,中山,M1片山)、カウル(市毛)、コントロール系(窪田,B4宮崎)という体制であった。
この様に部門を分けたのは、製作に当り、工場と3番教室という2ヶ所に分けた体制を取ったため、それぞれの部門をきちんと分けて、それを、それぞれの責任者が統括するという状態でないと、まとめきれないと考えたからである。

~あとがき的な何か by motty~
私たちのチームには、長い歴史があります。
しかし残念ながら、その歴史の中で積み重ねられてきたものを、完全に伝承、活用できてはいない気がします。
逆に長い時間が経ったために、忘れられたり、口伝の中でこぼれ落ちてしまったことも多いのではないでしょうか。
今では、自分たちのチームがどうやって生まれ、どのような活動をしてきたのかさえ、実はよく知らないメンバーが多数かと。

主力が以前より低学年にシフトした現体制で、チームの雰囲気が大きく変わったと感じています。
もちろん、良い変化もあったのですが、
前述の伝承面での不安が大きくなり、
さらに率直に言って、知識、技術面でも、2009以前の諸先輩方と私たちとの間には、大きな隔たりがあると思います。

せめて、遺された資料に分け入り、良い面には学び、失敗は繰り返さないように努めなければ、せっかく培われてきたチームの力が大きく低下してしまうのではなかろうか。
→負の動機付け。

新しく学び、発想して、チームの力をより高めていくために、これまでのことを振り返ってヒントとする時期に来ているのではないだろうか。
→正の動機付け。

資料の大整理や、図面やデータのデジタル化を言い出したのは、そんな思いがあったからです。
(大変煩雑な作業であるにも関わらず、快く賛成、参加してくださった皆様、ありがとうございました_(._.)_)

今回の文書、まずは手始めとしてチームの歴史を知ろう、との意図で載せました。
pdfであげようかとも思ったのですが、pdfのあげ方がわかんなかった;
のと、ダウンロードめんどくさい派な人が読んでくれないんじゃないかと思い、
こんな形になりました。

末筆ながら、この資料を残してくださった先輩方に感謝いたします。

P.S.エラそうな事うるさく色々書いてすいません…私なんかがごめんなさい↓↓↓

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