人生最大の挫折を味わってしまった。
どうしてこんな目に合わなければいけないのか分からない。なぜ?なぜ僕はプラホにも上がれずに湖岸で泣いているのだろうか?なぜプラホ上であの景色を眺めることが出来ないのだろうか?一年間かけてやってきたことは無駄だったのだろうか…?
会場のアナウンスで強風により大会途中での中止が知らされた瞬間、僕は冷静だった。いや、冷静を装っていたのかもしれない。風が強くなりだした日曜日の正午。夏のはじまりの琵琶湖の天気はうざいほど良かった。すべてを焼き尽くすような強烈な日差しを逃れて木陰で休んでいたその時のことだった。
正直に言うと、覚悟は出来ていた。今大会は直前にプラットホーム建設の作業員が事故で亡くなり、大会自体が中止になる可能性がほのめかされていたからだ。事故発生から大会開催の可否が決まるまでの一週間、僕は鳥人間でやってきたこと、学んだこと、感じたことなど一年間を振り返っていた。考えた。考えを巡り巡らせた。果たして、飛べなかったら僕たちが一年間かけてやってきたことは無駄だったと言えるのだろうか?
そんなことは決してない
これがそのときに導き出した結論である。飛べなかったという「結果」を前にしたらどれだけ悔しいのか、やるせないのか言葉にするまでもない。しかし、どんな結果になろうともチームで協力して機体を完成させたという「過程」は必ず色褪せず残り続けるから、それを受け入れるという覚悟はできていた。
大会は結局予定通り開催されることが決まり、僕たちは飛んで「結果」を残すことが出来るようになった。しかし、現実は甘くなかった。大会初日、ペラ機が午後からの強風で翌日に持ち越された。そして、滑空機の大会二日目も同様、午後から急に強風が吹き始めて大会が中止となった。我ら九大はプラホまであと2機のことだった。
事前の覚悟があったからこそ、僕はしばらく冷静でいられた。しかし、自分を理性で制御できるほど強くなかった。僕が冷静でいられたのは、まだ状況を理解して受け入れることができなかったためだった。日陰で休んでいた僕はいつの間にか尾翼の近くにいた。あんまりよく覚えていないけど、そこで涙があふれた。
やるせなかった。例年のフライト順だったら飛べたのに。あとたったの2機だったのに。世の中は残酷だな。人生は思うようにいかないんだな…
二人の後輩が僕を抱きかかえてくれた。優しかった。後輩たちが不甲斐ない自分を見捨てずに手伝ってくれたおかげで尾翼は完成した。尾翼班に同期のいない僕にとっての同期くらい頑張ってくれたから本当に感謝してもしきれない。だけど、そんな大切な後輩を見て「ああこいつらは来年以降もあるしな」とか邪なことを思ってしまう自分を殺したい。
先輩には何も言われなかった。M1もM2も自分の代は飛ばせてるから後輩とか別にどうでもいいんだろうな、とか思ってしまう。でもなんか慰められたらそれはそれでうざいのかも、ほっといてほしいとかクソみたいなことを考えたりもした。自分を嫌いになりそう。
今年に懸けていた同期は同じ気持ち、あるいは自分以上に鳥人間に捧げていた人はもっと悔しいはずだと思ったけど、そういう人たちに比べてそもそも自分が泣いて良いのかも分からなかった。本当に本気で鳥人間に捧げることが出来たのかと自分自身に問いかける。妥協したりメンバーに迷惑ばっかりかけてきたはずだから飛べなかったのは因果応報じゃね、とか思ってしまう。「でもお前尾翼は完成さえさえればいいじゃんとか言って手抜いてたくね?」「泣くほど鳥人間に捧げてたの?」「お前鳥人間に本気だったの?海外とか行ってたのに」とか仮に言われたとしても、正直その通りだと思ってしまう自分が情けないし救いようがない。
ああこれで全て終わりなんだ。あっけないな。今までやってきたことは何なんだ?結局こうなるんだったら最初からやらなければよかった。一緒に頑張ってきたチームメイト、後輩に示しがつかないな。応援してくれた人たちにも申し訳ない。「かわいそう」とか「頑張ったことは無駄じゃないよ」とか同情されんのかな。なんか嫌だな。院試勉強への区切りがつかないとか、自分が気持ちよく終われないとか、琵琶湖代無駄だったな…とかなんか本質じゃない考えも頭をめぐりめぐる。しょうもな。そんなん全部どうでもいいのに。
急に割り切って考えてみたりもする。え、別に鳥人間とかどうでもいいじゃんw金もらえるわけでもないしさ、仕事じゃないし。飛べなくたって死なないし。ただのサークルごときに何本気になってんだよ、とか。鳥人間よりやりたいことあったんじゃないの?しかも責任ある立場になっても自分のやりたいこと優先して楽しんできたじゃん。それで良くね?でも、もし途中で鳥人間なんか辞めてたら春休みにインドだけじゃなくてネパールとかパキスタンも行けたよな。鳥人間に拘束されなければ長期休みフルで使ってアフリカとかも旅できたのにな、とか。
分からない。自分が分からない。この感情は何だろう?悲しさ?悔しさ?怒り?やるせなさ?諦め?後悔?安堵?恥ずかしさ?寂寥感?情けなさ?申し訳なさ?不甲斐なさ…?複雑だな。よく分からない。
気が付けばピカピカの機体は駐機場で解体され始めていた。さっきまではあんなに大事に触れられていた機体が無残にもバリバリと壊されていく。みんなで何日も時間をかけて魂を込めて作った最高の機体が役目を果たすことなく壊されてゆく。飛べない飛行機って存在価値が無いんだ。なんて儚いんだろう。
ずっと前から後輩には「着水した瞬間に他人になるよ」って冗談っぽく言っていたから、着水しなかったらいつが代替わりなんだろう、と考える。あ、なんか雰囲気的にたぶんもう代替わりしたんだな、と思って僕は尾翼ポーチを新班長に渡した。そして、尾翼の側で解体を眺めながらボーッと座っていた。最後まで示しのつかないどうしようもない尾翼班長だったな。
琵琶湖の日差しは相も変わらず、馬鹿みたいに僕らを照らし続けていた。僕は暑さを感じることも忘れて、琵琶湖の風にただ身を任せていた。人生最大の挫折を味わってしまった。この気持ちは良くも悪くも一生忘れられないし、忘れたくもない。
― 2023年の4月、九大に入学した僕は鳥人間チームに入部した。鳥人間に興味を持ったのは単に飛行機が好きだったから。工学部の三群に入学し、航空宇宙工学科を目指すというありがちパターンの一人である。鳥人間自体は昔からテレビで見ており、親しみがあった。せっかくだから大学でしか出来ない経験をしたいと思って鳥人間チームに入った。
しかしながら、入部後はほとんど作業に参加しなかった。僕は強制されないと動かないタイプなので、このサークルの「意欲ある人が自発的に作業に参加する」というシステムが本当に合わなかった。また、軽音サークルも兼部していたり、バイトを始めたり、1年後期からは車校に入ったり、そして何より航空宇宙工学科に入りたいという思いから割と授業やテスト勉強、課題には力を入れていたので、鳥人間に多くのリソースを割くことが出来なかった。そのため、同期とそんなに仲良くなることもなく、僕の名前すら覚えていない先輩もいるほどだった。今となっては、そのくらいの時期にサークルに全然行かなかったことをものすごく後悔している。
そして、僕の鳥人間に対する姿勢を伝える上で欠かせないのは「旅」に対する憧れだ。僕が人生において特に興味があることを3つで表すとしたら「飛行機」「旅」「芸術」である。そのうちの「旅」に対する想いが大きく実ったのも大学生になってからだった。僕は好きな写真家・エッセイストである星野道夫氏の足跡を追おうと、2年生の夏休みに一人で1ヵ月ほどアラスカに旅立った。その時の経験があまりに強烈で印象的だったことで旅や海外への憧れが大きくなり、以降在学中にバックパッカーとして複数の国を訪れることとなる。
旅をするためにはお金が必要である。そのため、僕は一年生の春休みに新潟のスキー場で住み込みバイトをしてお金を貯めたりした。お分かりだろうが、春休みという期間は鳥人間にとって非常に重要な時期である。班長を経験した今だからあえて言うが、その時期に全く作業に参加しないということは鳥人間の作業の真髄を知らないも同然である。そして、貯めたお金で今度は夏休みに長期の旅に出たというのだから、この頃自分の生活の中に鳥人間は基本的に入っていなかった。
正直に言ってこの頃の鳥人間は全く楽しくなかった。
同期とも打ち解けられるほど仲良くなかったし、むしろ作業場にいて少し気まずいし、自分に出来ることも限られていたからチームに対して自分が貢献できていることがほぼなかった。だから作業場に行くことに対して大きなハードルを感じてしまっていた。忌憚なく言うと、その程度の参加率なら自分がやりたいことは他にいっぱいあるのだし、自分のためにもあるいはチームのためにも辞めた方が良かったまである。
それでも辞めなかった理由は、むしろ自分のやりたいことが他にいっぱいあったからこそでもある。僕はずっと広く浅くの人生で、狭く深くが出来ない故に一つのものをずっと続ける経験が無かった。中学では最初はテニス部だったけど途中で飽きて美術部に転部した。高校でも最初はバドミントン部だったけど、途中から美術部も兼部しようと顧問に相談したら「両立できなくてなぁなぁになるからダメだ」と拒否されたが、顧問に隠れて美術室に通い続けた。自分の興味があることが多いからこそ最初に自分の意思で選んだ道なのに途中で放棄してきた人生だった。
これを踏まえるとどうだろうか。鳥人間も自分の意思で入ったはずなのに、途中で嫌になって辞めたとしたら僕は一体何が出来る人間なのだろうか。別に逃げることなんてすぐに出来る。でも逃げたら負けだと思った。「石の上にも三年」ということわざがあると思うが、僕はそれを信じることにした。「なんか思ってたのと違うな」とか「あっちの方が楽しそう」くらいの軽い気持ちで腰を据えずに、放浪ばかりしても結局何も生み出さず、何も得られない。一つのことを最後まで続けることが唯一の正解だとは思わない。逃げた方が正解のこともたくさんある。だけど逃げずに続けることによって得られるベネフィットは必ずあると思った。ただ、それでも自分が本当に最後まで続けられるのかは正直分からなかったし、惰性で続けているという面もあった。
そんな悶々とした想いを抱えながら参加した2年生の鳥コン、つまりQX-24のフライトは自分にとって印象深いものだった。ご存じQX-24は九大悲願の400m越えでチーム歴代記録を更新し、低翼T字のポテンシャルを示した大会である。学科配属前最後の期末試験の勉強に追われて、全組やその他作業もほぼ参加しなかった。それにも関わらず尾翼班の人数が少なかったこともあり、プラホ上からその景色を眺めることが出来た。それは素晴らしい結果だった。
しかし、僕は全く喜べなかった。
なぜならば僕がこの機体やチームにほとんど貢献できていないことを自分自身が一番知っていたからだ。例えて言うならば、映画の世界に入り込んでいるみたいだった。そこでは、頑張ったそれぞれの主人公がいて、登場人物もいる。そして、エンディングを鮮やかに彩る素晴らしい結果も出た。完璧だ。だけど、そこに自分は登場していなかった。自分はただのエキストラに過ぎなかった。もちろん涙は出ない。周りのチームメンバー全員が涙を流して喜んでいる中、心から喜べない僕の気持ちは想像できるだろうか。チームが良い結果を残したとしても、自分がそこに貢献できたという思いが無ければ本当の感動は得られないのだと学んだ。一番重要なのは結果ではなく、そこに至るまでの道のり、つまり過程なのだ。
2年生の夏休みを終えて、無事憧れていた学科に配属が決まり、この苦い経験もあって僕は作業場に通うことにした。ようやくエンジンを本格的にかけ始めた。このころからもう一つ意識しだしたのは、自分が将来的に尾翼班の班長になるということだ。僕の代には尾翼班員は一人だけだった。そのため、必然的に僕が班長をやることになる。そのことに責任を感じた。おそらくだが、尾翼班に他に一人でも同期がいたら自分は班長になっていなかったはずだし、ここまで作業に参加していなかったはずだ。これはそういう運命であり、カルマである。
QX-26で班長をやる僕は、QX-25の作業で全てを学ばないと大変なことになる。そういう義務感も自分をさらに逃げられなくし、作業場へと導いていった。作業場にちゃんと行くようになるとやはり人間関係が着実と出来上がっていく。僕は陰キャでコミュ障なので、それもあって人間関係を築くのは苦手だったので割と大変だった。
一つ上の代の尾翼班長である芝田さん(次期代表)が優秀過ぎて、僕が足手まといになっているのではないかと思う場面も多かったが、そんな不器用な僕も受け入れてくれて嬉しかった。同期や先輩・後輩との人間関係が出来上がっていくにつれて、作業に参加してチームで機体制作をすることの楽しさをようやく感じ始めた。ただ、もちろんだが作業は楽しいことばかりではなく多くの失敗や苦しいこともやらなければならない。QX-25の作業を通じて、尾翼を作ること、そして飛行機を作るということがどれだけ大変なのかを学んだ。不安になった。果たして僕は来年これが出来るのだろうか?
そして迎えたQX-25のフライトではプラホ上で自然と涙が出た。大きく左に舵を取って飛んでいく機体に向かって本気で叫んだ。あの時はまだ主人公にはなれなかったけど、少なくともQX-25という映画の登場人物の一人として物語に貢献した実感が得られた。
そして、着水と同時に僕が班長になり、ついに自分の代が来た。
言うまでもないが、鳥人間の作業は過酷である。特に班長、あるいは班長代を経験した人は分かるはずだが、基本的に自分のやりたいことは後回しか、あるいは犠牲にして鳥人間に捧げないといけない。上述した通り、僕は一つのことに自分の時間を全て捧げたり、自分のやりたいことを犠牲にすることが本当に嫌いだし、そういう経験をするときは毎回逃げてきたから自分に自信が無かった。自分がリーダーとなって誰かを導く経験も無かったから、とても不安だった。歴代の尾翼班長の背中を追いかけることは出来ても、それを追い越したり自分がそこに肩を並べることは出来ないのだと最初から弱気になっていた。鳥人間をやり抜くという覚悟は決めたはずだけど、結局はいつものパターンで途中で逃げ出したりしちゃうのかもしれない…
それでも、QX-25のプラホからの景色は忘れられなかった。今度は自分が主導となってあの景色をもう一度眺めたい。そして、後輩にも眺めさせてあげたい。矛盾みたいに聞こえるが、僕は鳥人間を最後までやり切るためには鳥人間だけには捧げないことが大切だと思った。鳥人間が義務になって責任が重くなって嫌いになれば僕は逃げてしまうことが分かっていた。歴代の班長みたいにストイックにやっていたら自分を見失ってしまうかもしれない。今までに何人かの先輩が班長や設計、班長代の重圧に耐えきれずにサークルから姿を消す光景も見てきた。だからこそ自分の気持ちを大切にして、自分に嘘をつかず、自分なりの方法で頑張りたいと思った。それがたとえ型破りな方法になっても少なくとも尾翼さえ完成させればプラホ上からあの景色をもう一度眺めることが出来る、そう思った。
新生QX-26尾翼班は同期がいなくて頼れるのは後輩だけであった。そのため、最初は後輩やチームとの人間関係を築くことを大切にした。夏休みには1年生向けに尾翼の組み方やパーツの役割を学ぶ機会を設けたり、尾翼の空力的な役割や飛行機の飛ぶ仕組みなどの勉強会を主催した。飛行力学の理論に則ったバルサ飛行機の制作会やBBQなど、とりあえずは「楽しい」チームを作り上げるために尽力した。これは、自分自身の反省も踏まえている。僕は1年生の夏休みはほとんど作業に行かなかった。せっかく鳥人間に興味を持って入ってくれた後輩たちが僕と同じような足跡を辿ってほしくなかったから、先輩と後輩、そして後輩同士がもっと関われるような環境を作ろうと意識した。チームメイトの信頼関係が出来ていれば、しんどい時も乗り切っていけるし、希薄な関係とか、はたまたギスギスなんてしたらそれこそ鳥人間を楽しめなくなって辞めてしまう。
また、「先輩は絶対」みたいな価値観は絶対に後輩には持ってほしくなかった。先輩の方が経験が豊富であるのは確かだが、エンジニアリングにおいては理論が絶対だから先輩でも間違ったことを言ってしまうこともある。そんな時に感情に左右されず、上下関係とか関係なく言うべきことを言えるのはチーム全体にとって有益である。上の代は下らない見栄とかプライドは捨てて、後輩の言うことにしっかり耳を傾けるべきだし、下の代は怖気づかず正しいと思うことは言うべきである。そして、それを実現するためには常日頃からそういった信頼関係を築く必要があり、僕は腰を低くして後輩に対して積極的に意見を求めたりして、僕に対しても忌憚なく意見を言えるような環境づくりを常に意識した。「楽しい」チーム作りはどんな面から見ても重要であるから、後輩も是非色々考えて実行してほしい。
そして、チーム作りを終えた後の後期からは本格的に本番期の機体制作が始まった。
10月は胴体・胴接の線引きやカット、さししろ調整をした。後期の授業も始まって本格的な機体制作が始まったが、チームメイトに作業を振ったり、スケジュールを管理したりするのが始めたばかりは難しかった。また、この時期には全体作業として焼きが行われた。11月は安定板焼き・安定板加工。私生活が忙しくなったこともあり、安定板焼き直前にインフルエンザに罹り、病み上がり直後に焼きを行った。このころ僕はバイトを二つ掛け持ちしていたが、これを機に一つを辞めた。何かを始める時には何かを諦める勇気も必要だ。
自分の体力や体調、キャパをしっかり把握して無理のない行動をすることが大切である。後輩たちは、班長はバイトは出来なくはないけど、授業やテスト等も全然あるのですべてこなそうとすると日常生活が相当にしんどくなることを知っておくと良い。ただ、日常でのYouTubeとかSNSを見る時間、ゲームの時間とかどうでもいい時間を削って有効活用すれば十分やっていけるはずなので、それぞれの能力・努力次第だと思う。
少なくとも、チームの協力のおかげで安定板を無事に焼くことが出来たのは尾翼班長としては大きな自信につながった。そして12月は胴接・胴体・上桁・横桁の加工などさすまた焼きの準備をした。尾翼は胴体も担当するが、アームが長い分小さな誤差が大きく影響してしまうのでレーザーを出しながら神経を使って正確な作業をした。時間はかかるが、ここで雑にやってしまうと後の作業がよりしんどくなるということで慎重に行った。線引きなどで銀テープやレーザーを使うときは、妥協をしないように心掛けた。「楽しいチーム」は和気あいあいとして冗談が飛び交う和やかな空間だが、やるべき時はふざけずしっかりやるというオンオフの切り替えが大事だ。
そして12月下旬にさすまた焼きがあったのだが、これが失敗に終わってしまった。数か月分の進捗が失われたためだいぶ凹んだが、作業にマージンを設けていたから時間を有効的に利用して作業を繰り返すことで第二回のさすまた焼きは無事に成功させることが出来た。ついでに言うとこの時期は年末年始も挟んだため、僕は1月初旬の正月休みも使ってさししろ調整を終わらせた。僕は「出来るか出来ないかではなくやるかやらないか」という意識を大切にしていたため、終わらせることが出来た。不可能なことは基本的には無いので、あきらめないことが大切だと学んだ。
第二回さすまた焼きは運の悪いことに暴風雪が吹き荒れる中行われた。その時期はテスト前だったり、2年生は成人式の時期だったこともあり、ほとんど班長代のみで行われた。交代要員がいない少人数の状態で、極寒の屋外で鼻水を垂らしながら積層をしたのは信じられないほどしんどかった。風が強いから服をどれだけ着ても寒かった。作業は深夜まで続き、信じられないほどの寒さに僕は限界を迎えて、途中でリタイアしてしまった。僕がリタイアすることで周りの人に迷惑が掛かってしまうのは分かっていた。だけれどもあの環境には明らかに体がNOサインを出していた。家に帰って暖かいシャワーを浴びて入った布団は人生で一番幸せな空間だったが、同時に罪の匂いがした。
チームメイトは結局夜を徹して積層や真空引きなどを頑張って、翌朝になってE-café横の現場に戻ったときには温度管理に移っていた。正直、同期に見せる顔が無かった。どれだけ責められても仕方がないと、覚悟して向かったのだが、反応は真逆で「お前も昨日は遅くまで頑張ったよ」と暖かく迎えてくれた。僕が逆の立場だったら多分怒っていた。いや、絶対怒っていた。なのに怒るどころか、こんな言葉をかけてくれた。これは信じられないほど嬉しかったし、こんな同期に恵まれたことを幸せに思った。そして自分も、他人が辛いときは休んでもいいんだよ、と声をかけられて、お互いの努力を認め合えるような人でありたいと強く思った。自分は不甲斐ない行動をとってしまったが、逆境を乗り越えたからこそよりチームの結束が強まった、そう思える経験だった。
そして2月からは春休みが始まり、尾翼班の本気フェーズがスタートした。作業は基本的に毎日おこなった。作業内容としては、2月は胴接のねじり止め、安定板の加工、尾翼マウントの加工、リブづくり…などなどたくさんおこなった。
春休みにも後輩たちは高頻度で作業に参加してくれたので本当に助かった。もちろん、免許合宿とか、帰省、旅行やバイトなどそれぞれの用事があるのだが、空いている時間は鳥人間のことを気にかけて、できる範囲で参加してくれたので班員それぞれのやりたいことも犠牲にせずに作業を進めることが出来たと思う。
そして、ついに僕は春休みの途中に単身、インドへ旅立った。
「は?」という感じだと思うが、事実である。僕は班長という重い責任を背負いながらも12日間のインドへの一人旅に出かけた。
実は、この旅に出ることを決めたのは11月の安定板焼きを終えた頃である。そのころ、僕は鳥人間に限らず人生に対してモラトリアムを感じていた。大学生としてはありがちだと思うが、自己啓発本みたいなものを読み漁ったり、今後の大学生活や、就活、あるいは今後の人生について考える時間が多くなったことで、果たして僕はこのままでいいのだろうか、と考えてしまった。短い学生生活にまだやり残したことは無いか、と考えたときに頭に浮かぶのはいつも自分のやりたいことの3本指に入る「旅」であった。そんな時に航空券を調べていたら福岡からインドまで片道3万円で行けることを知ってしまい、悩んだ挙句旅に出ることを決めた。僕は本格的にローリングストーン(風来坊)への道を歩みだしてしまったのだ。
同期とか尾翼班員にも相談したが、もちろんあまり良い顔はされない。だけど、僕は自分のやりたいことを優先した。航空券を取ったことを報告したときは流石に「大丈夫か」と心配されたが、正直自分は必ず尾翼を完成させることが出来ると信じていたし、仲間も結局はそれを信じてくれた。何より自分のやりたいことを我慢すればそれは偽善であり、自分自身に嘘をつくような行動はしたくなかった。
班長が率先して自分のやりたいことをやるということは、僕は後輩に対してむしろ新しい考えを示すことになるはずだと信じていた。つまり責任を過度に背負いすぎず、でもやるべきことはやることで、いわばワークライフバランスみたいなことを達成できると思った。
別に鳥人間が嫌になった訳ではない。むしろこっちも楽しんでやっているけど、それ以外にもやりたいことがある。「班長でもそんな自由で楽しくいて良いんだ」と思えれば心理的な負担も小さくなる。そして、何よりそういうことが許されないチームは、自分が求めている「楽しいチーム」ではないとも思った。
僕は割り切って考えた。自分に与えられた時間が限られているのなら、あらゆる無駄な時間を排除して自分のやりたいこと、そしてやるべきことのみに注げば難しい「両立」も完遂することが出来るのだと。そのため、僕はあらゆるくだらない人間関係を切った。ご飯も飲み会も旅行もほとんどキャンセルした。八方美人も社交辞令的な人間関係も非効率だから意識して辞めた。何かを始めるためには、やはり何かは諦めないといけない。あまりにも良識とかを無視して人間関係を割り切って考えたから友達からは「あいつ鬱になったんじゃないか」と思われてしまった。今思えばあの時の自分は正気じゃなかった。しかし、それよりも大切なことがあったからどうでも良かった。誰かに好かれることとか、慣れ合いの人間関係も全てどうでも良かった。
そして帰国後、ぼくは宣言通り固い意思と強い思いをもって作業を再開させた。3月中旬からほぼ毎日作業をした。この間には尾翼マウント取り付け、リンク周りのカーボン加工、リンク取り付けなど、尾翼がどんどん完成系に近づいてくる大事な作業を多く行った。個人的にはカーボン加工で用いたNCフライスがめちゃくちゃ難しくて何度も失敗して心が折れかけそうになった。一個上の芝田さんも去年は苦戦していたそうなので、夏休みとか落ち着いている時期に一回使ってみて、使い方をマスターしておくと忙しい時期に困らないと思った。
そして、春休みは終わり新学期が始まった。例年よりは少し作業が遅れているが、大きなビハインドを背負っている状態では十分なペースで作業が進んでいた。尾翼としては初めての取り組みである主翼方式の治具を使ったリブ付けを導入したことで、大きく時短できた。舵面製作も並行して行い、トラブルにより一回日程をずらしたものの4月下旬の尾翼試験に無事間に合わせることが出来た。
この4月は簡単に書いたものの自分にとっては人生屈指で忙しい1ヵ月だった。新学期が始まり4年生になり、研究室に配属された。僕の研究室は平日は毎朝9:30に行かなければならず、日中は慣れない研究で、夕方からは鳥人間。土日ももちろん作業があり、そしてインドの旅費回収のために下手にバイトを入れてしまったりして本当に忙しい日々を過ごした。自業自得に過ぎないのだが、だからこそ僕はあらゆる時間を鳥人間のために捧げた。それが鳥人間と旅という二つを両立させるための自分との約束だったから、死に物狂いで頑張った。
この間、特に印象深い作業として多くの人が挙げているのが「朝4時角度出し事件」。これは、B3が製図で5限まで授業があって人手が足りなかったこと、途中で部品が足りないことに気が付いてホームセンターまで買いに行ったこと、なんかそのままマックを買いに行ってしまったこと、そもそもミスミ馬とかレーザーのセッティングが結構大変で作業時間の見立てが甘かったこと…など色々な原因によって朝4時まで作業をしてしまった事案である。当時は死ぬほどしんどかったし、後輩にはものすごく申し訳ないことをしてしまったと自責の念にかられた。しかし、何日か経てば「あぁ、あの朝4時のやつね笑」とネタにしてくれる後輩や同期を見て、彼らは本当に強いなと思った。
こんなこともあったりして割と本気で追い込まれたこの一か月は、超ハードスケジュールだったのにも関わらず後輩たちも毎日のように作業に参加してくれて本当に助かった。班長が急にインドに行くと言って快く思わない人もいたと思うし、それによってスケジュールがひっ迫されて忙しくなったのならなおさらだ。それでも僕を見捨てず一緒に頑張ってくれた後輩には本当に感謝しかない。
そして意味が分からないと思うが、尾翼試験の3日後、僕はまた海外旅行として5日間ほど上海に旅立った。
過酷な1ヵ月を終えた直後の海外旅行から帰宅したあと、僕は案の定体調を崩した。ちょうど福岡で謎風邪が流行っていたので罹ってしまった。尾翼試験はマージンをもって他班のロールアウトよりも1ヵ月ほど早くしているが、正直言ってそんなに早くやる必要はないと思った。前例を踏襲することは大事な場合が多いが、今一度ただ単に惰性でそうなっているかもしれない可能性を考えて、しっかり論理的に考えることは大切である。後輩にはやはり、前例を疑い、それを変える勇気を持つことを習慣づけてほしい。もし尾翼試験をここまで急がなかったらもう少し余裕をもって作業が出来たはずだ。
そうして、6月は3回のTFを挟みつつ、空力パーツを作成したり、塗装やフィルム貼りなどの最終的な作業を行った。ウイングレットは例年通りB3に制作を任せた。他の空力パーツも設計からB3に担当させた。自分が楽になるのは正直あるが、そろそろ代替わりが近づいてきたからB3にマネジメントを学ぶ機会を与えるためでもあり、B2や新入生を積極的に巻き込んで作業する姿はとても頼もしかった。
僕は尾翼班長という立場として、マネジメントをすることがどれだけ大変で重要なことなのかを学んだ。そして、自分自身が、また多くの“人の上に立つ人”がその重要さを理解していなかったり正しいマネジメントを意識出来ていないことは問題だと思った。
マネジメントにはトップダウンとボトムアップという二つの方法がある。簡単に言うと、トップダウンは独裁で、ボトムアップは民主主義である。民主主義が良いに決まっていると思うが、マネジメントに慣れていない人がいきなり人の上に立つと、全て自分が決めて指示を出さないといけないと考えこんでしまい独裁的なトップダウンのマネジメントをしてしまうのだ。そして、チームの統制が取れなくなってしまう。
例えばチームメンバーの経験が浅かったり、あまりにも班長が優秀だったらトップダウンの方が速いし良いときもある。だけれども、鳥人間はあくまでサークルだからチームの意見を聞くべきだし、低学年のチームメンバーの意見も積極的に拾うべきだ。そうしないとサークルである意味が無いし、後輩が先輩の意思決定に甘えてばかりいると、いざというときに自分で判断が出来なくなってしまう。優れたマネジメントが優れた後輩育成に直結すると思う。
こうしたマネジメントを行うためには、チーム一人ひとりが当事者意識をもって作業に参加することが求められる。幸いなことに尾翼班のB3は優秀で作業にたくさん参加してくれていたから意思決定の際は僕が決断を背負いすぎることは無かった。
後輩のみんなは、班長だけが独裁的に判断を決めるような状況にならないようにしてほしい。それでは班長の心理的な負担が大きくなるし、他メンバーとの意見の相違からの人間関係のもつれを生み出しかねない。よく議論をして、全員の意見や思いをくみ取ってボトムアップのマネジメントをするように心掛けるといいと思う。
ただ、こんな偉そうなことを言っていて、自分は計画性皆無の作業スケジュールとか、僕が逆に何にも意見を持たなすぎて後輩に迷惑をかける場面とかもあって、不甲斐ないマネジメントを繰り返してしまった。その後悔があるからこそ、自分の良くなかったところを反面教師にして来年以降は頑張ってほしい。
そして、7月は空力パーツや塗装、フィルム貼りの最終的な仕上げを行い、ついに琵琶湖で飛べる形まで機体を完成させることが出来た。
自分は最後までやり切ったのだ。
他のやりたいことも両立させながら、僕は尾翼班長として尾翼を完成させることが出来た。本当に嬉しかった。そして、安堵した。これは必ず自分にとって大きな成功経験になるはずだと思った。そして、ミーティングや全組、積み込み練習や積み込みを経て、ついに鳥コンに向けて旅立った。
鳥コンに向けて出発する頃はまさか強風で中止になるなんて思いもしなかった。天気予報は確認していて、日曜日は晴れ予報だった。湖岸まで到着し、積み下ろしも行い、テントも組む。0胴も組み始めて、ペラ機が飛行している横で九大も着実に準備を進めていた。そこまでは非常に平穏だった。雲行きが怪しくなったのは正午辺りだった。急に風が強くなりだしたと思ったら、それはどんどん強くなり、ついには8m/sなどの強風に変わった。ペラ機の大会はこの日は中止になった。予報によると翌日も昼頃から強風になるという。
僕は飛べないんじゃないかと思った。なぜなら我ら九大は滑空機の13番機である。そこまでの間にまた風が吹き始めてしまうのではないかと思ったからだ。強風が吹き荒れる中、水平を組むことは諦め、安定板と舵面のまま夜を明かした。不安で複雑な夜だった。虫に体中を刺されたのもあってこの日はほとんど寝れなかった。
そして、当日を迎えた。朝の琵琶湖は驚くほど凪いでいて、美しかった。ペラ機が始まり、やがて滑空機も始まった。正直いけると思った。あまりに風が吹いていなかったし風が吹く予感もしなかった。そして、自分たちが今まで頑張って来たから中止になる訳がないという非科学的な思い込みに安心していたのもある。滑空機は着実に飛び立ち、自分たちの番が刻一刻と迫ってくる。
しかし、それは急に来た。気が付く間もなく、僕たちを琵琶湖から押し返すように強風が吹き始めた。昨日レベルの風だったら飛べるわけがない。大会は40分間のお昼休憩に入るとのことだったが、風が吹き始めたことでそれが無くなって、僕たちのフライトはあと2機に迫ったところだった。
そして、これ以降は最初に述べた通りである。
― 2026年7月27日19:30、阪九フェリーの船上で乾杯をした。甲板はとても風が強かったが、夕暮れの美しい瀬戸内海の景色に酔いしれていた。前日(つまり鳥コン当日)の飲み会はOBさんとの交流がメインだったから、今日は同期や先輩と思いを打ち明けられる。
高橋が僕に泣いて感謝を伝えてくれたのが印象深かった。彼は空力設計・電装班長として頑張ってきた。尾翼の作業にもめちゃくちゃ貢献して、高橋がいなかったら尾翼は完成しなかったのに、
「鈴木がいたから尾翼が完成した。ありがとう。妥協なんてしてないよ」
と言ってくれた。
僕が海外に行くときも肯定してくれて(というか呆れてネタにしてくれて)春休みも4月の尾翼の作業に追われているときでも、いつも手を差し伸べてくれた。どうしようもない僕を見捨てなかった。他の同期も全員そうだ。いっぱい迷惑かけて、突飛な発言や行動で困らせてきたはずなのに、僕を認めて支えてくれた。本当に素晴らしい人たちに支えられてここまで来れた。
前代表の中村さん(QX-24尾翼班長)にも迷惑をかけたはずなのに
「正直尾翼完成しないと思っていたよ。でもインドとか自分のやりたいこともやりつつ班長として尾翼を完成させたのは一つの新しい形を見せてくれた」
と言ってくれた。正直、自分のやり方や割り切った思考が一般論として正しいとは思わない。班長なのに何回も海外旅行をして他にやりたいことを諦めなかった態度を快く思っていなかったり、不安に思った人も多いはずだ。しかし、確かに尾翼は完成させた。少なくとも僕自身の、そしてチームに対してのノルマは達成されたのだから僕はこのやり方に後悔はしていない。自分に嘘をつかず、やりたいことに捧げられた。班長代でも機体を完成さえさせれば鳥人間以外にもやりたいことをやってもいいのだし、それでも鳥人間に懸けた時間や思いは本物だ。
僕も散々泣いた。お酒が入っていると感情が高ぶって気持ちいいほどに泣ける。このフェリーが着けばもう僕らは終わってしまうんだ。作業場にはもう行かないし、今までの日常はもう戻らない。苦しいことも多かったけど結局最後は頑張ってよかった、そう思えるんだな。
誰かから、B2の守田君がツイッターで「この班長の下で尾翼を頑張れて良かった」的なことを言ってたよ、と言われてウルッと来た。僕が意識がけてきた「楽しいチーム作り」が功を奏して、誰か一人でもQX-26の尾翼班として活動したことを嬉しく思っているなら、それほど班長冥利に尽きることはないだろう。その言葉だけでもやってきてよかったと思える。
鳥コンを完全に終えた今思うことは、この1年間、ないしは入部からの3年間で得られた経験は自分の今までの人生においても大きな成功経験になったということ。最後に結果が伴わなかったのは本当に残念なことで、これが同時に人生最大の挫折経験になったことも確かである。しかし、何度も言うがそこに至るまでの過程は決して色褪せない。
そして、自分一人の力では何も成し遂げることが出来なかったからこそ、あらゆる人に感謝をしたい。結局人一人の力なんて本当に無力だ。僕は確かに尾翼班長として尽力したつもりだが、尾翼を完成させることが出来たのは、チームの全員の協力があったからである。
先輩は要所要所で呼び寄せて自分の経験不足を補って指導していただいた。先輩方の引継ぎ資料や指導が無ければ大変なことになっていたはすだから本当に感謝している。そして、同期のみんなは、正直浮いていて普通の人間じゃない僕を最後まで受け入れてくれて本当に嬉しかった。風来坊でごめんね。最後に、尾翼班の後輩のみんなには大きな迷惑と心配をかけたことを本当に申し訳なく思う。特に自分は妥協しがちなので、そこはちゃんとやった方がいいですよ、とか言ってくれるのは助かった。そんな風に後輩のみんなからの本質的な意見や作業に対する姿勢は見習うものが多かった。不甲斐ない班長でごめん。でも最後まで一緒に頑張ってくれて本当に嬉しかったし、愉快な仲間に囲まれて本当に楽しかった。ありがとう。
これを読んでいる後輩(特に尾翼班)に班長を終えた僕から伝えたいことがいくつかある。
・先輩や他人の顔色を窺わないでください。
・人から無理に好かれようとしないでください。
・常に自分の人生にプラスになる選択をしてください。
・心身ともに健康でいて、無理をしないでください。
・つまらない人間にならないでください。
・自分の心と直感に従う勇気を持ってください。
この文章を読んだらだいたいわかると思うが、これらは僕が学んで実践してきたことである。あくまで僕が大事だと思う価値観なので、もしみなさんが大事だと思うものがあったら覚えておくと何らかのタイミングで役に立つかもしれない。
最後になるが、僕にとって鳥人間は結局ロマンだった。情熱、そして空への憧れ。そういうものにはお金とか関係ないし、理屈とか数式では説明がつかない世界だ。焼きとかTFとか深夜の作業があったり、土日や長期休みも返上したり…なのにお金をもらうどころか部費として払っている。ビジネス・資本主義の前提では説明がつかない。こんな経験は大人になったら出来ないのかもしれない。言ってみれば無駄なこと。だけどそれを全力でやる。本当におかしくて意味が分からない。でも、それが楽しいからそれに捧げられる。
僕はこの3年間鳥人間チームの一員として機体制作に貢献できたことを誇りに思う。鳥人間を辞めずに続けてきて本当に良かった。傲慢で不甲斐ないけど、QX-26では自分は一人の主人公になれた気がする。

2026年7月30日 QX-26尾翼班長 鈴木大和
P.S.
“A rolling stone gathers no moss : 転がる石には苔が生えぬ” というイギリスのことわざには「一つの場所にも他の場所にも定着せず常に動き回る人々は、責任や苦労から逃げている」という意味がある。このことわざを初めて知ったとき「あ、自分だ。」と思った。色んな事に興味があるから結局何にもやり遂げられないし、何にもならない。ネガティブな意味だけど確かに的を射ているな、と思う。
しかし、アメリカでのこのことわざの意味は180度異なる。それは、「活発に動いている人は時代に取り残されず、いつも清新で変化に強い」という意味だ。何てポジティブな意味なのだろうか。僕はこれからも、良くも悪くもローリングストーン(風来坊)として生きていくのだと思う。